
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「信じられないわ。本当に量産化にめどがたつなんて。」
有田は、興奮冷めやらぬ様子で、増井とともに北山製作所から富士山電機工業へと戻る車の中でそう呟いた。
「ああ。北山製作所の職人たちの技術力と、健二さんの熱意、そしてAIの力。すべてがうまく噛み合った結果だ。」
増井もまた喜びを噛み締めていた。長年忘れ去られていた技術が新たな価値を生み出し、夢の実現へと繋がる。それは、彼にとって大きな感動であり、そして新たな希望でもあった。
しかし、増井の心の奥底には微かな不安が残っていた。それは森本に対する疑念だった。
(森本は、なぜ北山製作所のことを教えてくれたんだろう?)
増井は、森本の行動をどうしても理解できなかった。彼女は、飯島のチームの一員だ。ライバルチームである自分たちのプロジェクトに協力する理由がない。
(もしかしたら飯島は、森本を利用して何か企んでいるのかもしれない。)
増井は、飯島の冷酷なまでの性格を思い出し、背筋が寒くなるのを感じた。そしてその疑念を振り払うように、窓の外に目を向けた。夕暮れの空が赤く染まり始めていた。それはまるで、彼らの未来を暗示するかのような不吉な色だった。
一方、その頃。
飯島は、森本を呼び出し高級ホテルのラウンジで二人きりで向かい合っていた。
「森本さん、あなた、増井たちに協力したわね?」

飯島の言葉は静かだったが、そこには氷のような冷たさが感じられた。森本は、飯島の視線に恐怖で体が硬直する。
「そ、そんな、私は…」
森本は、必死に言い訳をしようとした。しかし、飯島は彼女の言葉を遮った。
「言い訳はいらないわ。私はすべてを知っているのよ」
飯島はそう言うとバッグから一枚の写真を取り出した。それは、増井と森本が北山製作所の工場前で笑顔で話している写真だった。
「これは?」
森本は写真を見て顔面蒼白になった。
「あなた、増井たちと随分仲良くやってるみたいね。忘れないで。あなたはネットワーカーズの一員であることを。増井たちはライバルよ?」
飯島の言葉は、鋭いナイフのように森本の心を抉った。
「そ、そんな、違います! 私は、私は…」
森本は、必死に弁解しようとした。しかし、言葉が出てこない。
(どうしよう、もう、言い逃れはできない。)
森本は、絶望の淵に立たされていた。
「森本さん、あなたには失望しましたわ。私はあなたを信頼していたのに。」
飯島は、冷酷なまでに森本を見下した。
「あなたには増井たちの情報を逐一報告するように指示したはずよ? なのにあなたは彼らに協力した。裏切り行為よ!」
飯島はそう言うと立ち上がり、森本を置き去りにしてラウンジを出て行った。森本は一人、椅子に座り込んだまま動けなかった。
(私は。私は、どうすれば…)
彼女の心は、後悔と、恐怖と、そして、言いようのない悲しみで満たされていた。増井への想いは、飯島への恐怖によって押しつぶされようとしていた。