企業経営の重点テーマとしてもキーワードに挙がる、「ウェルビーイング(Well-Being、良い状態)」。かつてユニリーバ・ジャパンで人事総務本部長として「WAA(ワー)」(※)などの先進的な取り組みを実現させてきた島田由香氏は現在、1年の半分近くを和歌山県みなべ町をはじめとする地域で過ごし、企業や自治体、1次産業の従事者たちのウェルビーイングに、その情熱を注いでいる。 生まれながらに人に興味があったと話す島田氏は、どのように「ウェルビーイング」へとたどり着いたのか。ライフワークである「ワーケーション」との関係性とその魅力とは。そして、イノベーションを起こしたいと思う人にこそ知ってほしい、ウェルビーイングの大切さを聞いた。
※ Work from Anywhere and Anytimeの略。ユニリーバ・ジャパンが2016年7月1日から導入した、働く場所・時間を従業員が自由に選べる人事制度。
島田由香
株式会社YeeY 共同創業者/代表取締役 一般社団法人日本ウェルビーイング推進協議会 代表理事
慶應義塾大学卒業後、パソナを経て、米国コロンビア大学大学院で組織心理学修士号取得。日本GEで人事マネジャーを経験し、2008年ユニリーバ・ジャパン入社。2014年に取締役人事総務本部長に就任。2017年に株式会社YeeY(イェーイ)を共同創業し代表取締役に就任。企業の経営支援や人事コンサルティング、組織文化の構築支援などを通じて、日本企業のウェルビーイング経営実現に取り組んでいる。また、地方自治体の組織コンサルティングやワーケーションなどのコンテンツ開発支援、地域住民のウェルビーイングを高める仕組みづくりを行う。アステリア株式会社CWO(Chief Well-being Officer)などを務める。
生まれながらにして、みんなの幸せを希求
今でこそ企業や自治体向けにウェルビーイングを取り入れるお手伝いをしていますが、このテーマにたどり着いたというより、自分が考えてきたことが「ウェルビーイング」という言葉であとからついてきた感覚なんです。
「みんなが幸せだったら全部うまくいくのに、なぜけんかするんだろう?」「なぜ組織の中だと笑っていない人がいるんだろう?」という疑問を抱いては一つひとつ行動するうちに、現在に至りました。わかりやすいキーワードがあると取り組みも認知されやすく、広がりも生まれるので、よかったなと思っています。
天性のものだと思うのが、「人への興味」。幼少期のエピソードを母に聞くと、当時から人のことが好きなんだな、と。私は記憶にないのですが、幼稚園から泣きながら帰ってきたことがあって。膝を抱きながら大泣きするので、母が「どうしたの?」と聞いたら、「おせっかいと親切って何が違うの?」と言ったと。人が困っているのを助けようとしたことを、どうやらおせっかいと言われて泣いて帰ってきたようでした。
「私がやりたいのは人事だ!」と気づいたのは大学2年生の頃。さまざまな企業の人がゲスト講師として参加する授業を受けていたのですが、そこである銀行の方が、「皆さんのような若くて優秀な人たちが来てくれれば、当行も安泰です」と言ったんです。そのときに、「一人ひとりがハッピーだったら、組織や企業は絶対に良好な状態で、パフォーマンスも業績もいいに決まってるじゃん」「組織の状態と向き合いもせずに外から優秀な人が来たらうまくいくって、おかしくない?」と思って。そして企業のなかでそういったことに取り組むのが人事だと知りました。
就活でパソナへの入社を決めたのは、会社説明会で社員の方たちが心から笑っている雰囲気を感じたからです。その後、留学をはさみ、日本GE、ユニリーバと移るなか、それぞれの仕事で重視していたのはやはり「人」。一人ひとりがどう輝くか、強みを発揮できるか、人が集まったときにどうチームとしていい状態であるかというのがいちばんの関心事でした。
体の声を聞いて、やりたいことに向き合えた
ユニリーバで人事総務本部長を務めました。取り組む施策を自らすべて決められるので、やりたいと思っていた役職でした。社員が働く場所・時間を自由に選べる「WAA」や、採用選考において顔写真の提出や性別に関する項目をなくす「LUX Social Damage Care Project」などは、実現した施策の一例です。私から何か提案をしたときに、他の役員が「えっ?」と反応するなかでも、当時の社長だったフルヴィオ・グアルネリさんは「いいじゃん、GO!」と、応援してくれて。社長からOKが出るので動きも速く、その積み重ねもあって実現した施策は多かったです。なので、ユニリーバが大好きだったし、今もそれは変わらないのですが、だんだん自分の時間やエネルギーを、役員として出席しなければならない会議、やるべき業務ではなくて、本当にやりたいことに使いたいと思えてきたんです。
そこで、役職を外してもらえないか会社と交渉を始めたのですが、そのうちに体からサインが現れました。まずは健康診断で、心電図の検査で要精密検査という判定が出ました。結局2カ月で特に問題もなく済むと、さらに2カ月後、今度は後遺症が残るのではと思うぐらいの重度のぎっくり腰。それが治まると、3カ月後には激しい頭痛が4日間続いて。そのときに「やりたいと思っていることと、体と心のバランスがズレているんだな」と捉えて、本当にやりたいことだけに取り組もうと決めました。そして会社に辞めたいと伝え、1年ほど経った2022年6月にユニリーバを退職しました。不思議なことに、辞意を伝えたら、ピタッと頭痛が止まったんです。当時、ウェルビーイングが下がっているとは思っていなかったのですが、ちゃんと体はわかっていて、教えてくれたという感じですね。
地域の産業と共に、ウェルビーイングを広める
現在は、株式会社YeeYの代表取締役として組織の中の一人ひとりがいい状態でいられるよう、ウェルビーイングとは何かを教育する研修、制度や仕組みを整えるためのアドバイス、コーチングといったことを、企業の役員や管理職の方々に向けて実施しています。
企業は今、イノベーションを求められていますが、イノベーターを生み出すために取り組むべきなのがウェルビーイングなのです。イノベーターとは、新しい考え方や見方をもち、従来のやり方と根本的に異なる変化をもたらす人たちです。彼ら・彼女らが活躍するための条件は、まわりが受け入れ、応援すること。これは、当事者をいかに精神的に良好な状態にするか、ということでもあります。まさにウェルビーイングの考え方なんですね。
ウェルビーイングな状態の人について、そうでない人と比べて創造性が3倍になるという研究結果があります。さらに生産性が31%、売り上げは37%高いというデータも。こういった観点から、社員をウェルビーイング、幸福度の高い状態にするため、企業は真剣に考えて取り組む必要があるのです。
もちろん企業だけでなく、地方自治体などの組織にもウェルビーイングは必要です。私自身、一般社団法人日本ウェルビーイング推進協議会では代表理事を務め、地方自治体の方々とウェルビーイングの取り組みについて連携しています。
ウェルビーイングの取り組みで大切なのは、「ウェルビーイングな状態を実際に体験してもらうこと」です。会議室で講師から聞いた話をメモするのではなく、体を動かして、見て聞いて感じて、体験する。そのために、地域に赴いて参加するプログラムやリーダーシップ研修を各地で展開しています。
また、2023年から「TUNAGUプロジェクト」を開始しました。1次産業を体験するワーケーションを通じて、地域の活性化とリーダー人材の育成を実現しようという研修プログラムで、和歌山県のみなべ町とすさみ町、石川県能登町、福井県高浜町の4地域で実施しました。1期目には各地域の合計で44人が参加し、なかにはJAL、パーソル、楽天といった、参加者を派遣してくれた企業もあります。
プログラムの成果も表れています。例えばJALから参加した6人の方々は、会社から見ても全員が前向きになっていて。本人たちもそれまでは時間に追われながら仕事をしている感覚があったけど、今はすごく自分が自分らしくいられる、と。プログラムでは日々の仕事から距離を置いて梅や木、魚などの自然に触れ、そこに向き合う1次産業の生産者の方々と触れ合います。そこで得られるエネルギーというのは、都会で過ごしているときとは段違い。それを全身で浴びる日々を送ってから職場に戻るので、「モノの捉え方が前向きになった」「モチベーションが続くようになった」という声を聞きます。
2024年4月から2期目を開催予定で、地域も富山県魚津市、三重県尾鷲市が加わります。現在は主に自主的に参加してくれる方を対象として実施していますが、先に挙げた3社のように、この取り組みを理解いただいて参加してもらえる企業も増やしていきたいです。
未来のイノベーターよ、自然を体験せよ
今、私がいちばん幸せを感じるのは、みんなで何かに取り組んでいるときなんですよね。一緒に作業するときもそうですが、みんなで取り組んでいたから「何かポジティブに変わったな」「何か芽が出たな」という変化を感じるときがあります。
ひとつの例が、和歌山県みなべ町での話です。みなべ町でプログラムを実施するにあたって、古民家を買いました。プログラムの参加者や地域の人がふらっと集まる場所になればいいなという思いで買ったのですが、実際にそれが起きていて。私も含め外から来ている人たち、現地の人たちがその場所を訪れて、融合が起きていると感じるんです。そのときに、とても幸福感を覚えました。
イノベーションに必要なのは、「いかに離れたところに行くか」。物理的な距離や、これまで関心がなかったというような、自分から“遠く”の知。これが、普段の習慣のような“近く”の知と融合するときに、イノベーションは生まれます。遠くの知は、いつも食べていないものを食べたり、なじみのない土地で過ごしたりといったことでよくて。つまり、地域におもむいて地場の1次産業に携わるのも該当します。
東京で仕事するのをやめろとは言いません。でも、半分の時間、農家をやってもらえたらと。土日だけでも、2泊3日でも構いません。土を触るとか風を聞くとか、生を実感し、「なんて美しい世界に私たちはいるんだろう」と気づく瞬間をつくってもらいたい。それは場所を変えないとできないので、プログラムを通してきっかけを提供しています。
「パーパス経営」や「ウェルビーイング経営」など、標語だけが上滑りしている感覚があって。それがあるから経営の重点領域としてフォーカスが当たるし、気づく人が増えるので、その標語自体に非を唱えるつもりはありません。しかし「理解」にとどまらず、実感をもって「わかる」という人がどれぐらいいるだろうかと。それをわかることができるのが、私たちが展開しているプログラムだと、自信をもって言えます。なので、そういった標語を掲げた取り組みをしている人たちには、「つべこべ言わずに1回来て!」という思いですね。
text by Reo Ikeda / photographs by Hiroshi Mizuno / interview by Aki Hayashi / edit by Tomoro Kato
Ambitions Vol.4
「ビジネス「以外」の話をしよう。」
生成AIの著しい進化を目の当たりにした2023年を経て、2024年。ビジネスの新境地を切り拓くヒントと原動力は、実はビジネス「以外」にあるのではないでしょうか──。すべてのビジネスパーソンに捧げる、「越境」のススメ。