日本企業を襲う7つの「人的資本経営の罠」に、3人の有識者が警鐘を鳴らす(後編)

Ambitions編集部

「人的資本経営」の大号令を受け、上場企業が情報開示に奔走している現在。しかし、開示に向けた業務の発生で現場の負担が急増する、本来の目的を見失って「形だけ開示」に走るなど、多くの企業が本質とはかけ離れた取り組みや結果=「罠」に陥っている。その理由は何か、前編に続いて3人の識者に聞いた。

徳谷智史

エッグフォワード株式会社 代表取締役社長

企業変革/人財・キャリア開発のプロフェッショナル。大手戦略コンサルティングにて国内プロジェクトリーダーを経験後、アジアオフィスを立ち上げ代表に就任。エッグフォワードを設立し、業界トップ企業からスタートアップまで数百社の企業変革やハンズオン支援を手がける。2万人以上のキャリア支援に従事。

円谷昭一

一橋大学大学院経営管理研究科 教授

一橋大学商学部ジュニア・フェロー、埼玉大学経済学部専任講師、埼玉大学経済学部准教授などを経て、一橋大学大学院商学研究科 准教授。2021年より現職。指導する学部ゼミナールを中心とした私的研究会「一橋コーポレート・ガバナンス研究会」にて企業のリサーチ・研究を行う。

山尾佐智子

慶應義塾大学大学院経営管理研究科 准教授

財団法人海外技術者研修協会、神戸大学大学院国際協力研究科(経済学修士)、英国マンチェスター大学ビジネススクール(国際経営論修士)、モナッシュ大学(経営学Ph.D.)を経て、メルボルン大学レクチャラー、同シニアレクチャラーを歴任。2017年より現職。専門は国際人的資源管理論。

4. 平等の罠──社会問題であるジェンダー格差は解決すべき。その先に経営戦略はあるか

人的資本経営を進めるうえで欠かせない要素の一つである「ダイバーシティ&インクルージョン」。人的資本の開示には「ダイバーシティ」「非差別」「育児休業」といった項目があり、従業員の年齢や性別、人種、障害の有無などの多様性、産休・育休取得率などの情報開示が求められている。

しかし“良い数字を見せる”ことにとらわれた結果、女性管理職比率の頭数だけをそろえるなど、ジェンダーウォッシュの問題も出てきている。

経済産業省はダイバーシティ経営について「多様な人材を活かし、その能力が最大限発揮できる機会を提供することで、イノベーションを生み出し、価値創造につなげている経営」と定義しているが、日本においてはダイバーシティ=女性活躍と捉える企業が少なくない。このテーマに対して山尾氏は、次のように話す。

「女性活躍や差別をなくすことは、解決すべき社会課題です。対して人的資本経営におけるダイバーシティの目的は、多様な人材にさまざまなアイデアを出してもらい、事業や経営判断の選択肢を広げることです。社会課題とビジネスは関連するものの別次元の話であり、これを混同してしまうと“数合わせ”のような本末転倒な状態に陥ってしまう恐れがあります」(山尾氏)

それでは、本質的なダイバーシティへの取り組みはというと「同じ性別でも価値観や環境によって従業員一人ひとりが異なるということを意識し、働き方の見直しや制度の適用などにあたっては、個別的配慮を行っていくことです。ダイバーシティとは本来、一人ひとりが意見できるような社内環境を整備することだと考えます」という。

また円谷氏は「管理職の女性比率向上については、“能力主義”であるべきという声が一定あるのも事実です」と語る。

「しかし、従来の男性優位のシステムの中で能力主義を掲げても、真のダイバーシティ実現には長い年数がかかります。既存のシステムを是正する意味で、女性比率などの数字をとっかかりとすることには、大きな意味があります」(円谷氏)

さらに円谷氏はダイバーシティ推進の鍵として「エイジ(年齢)のダイバーシティ」の重要性を説く。

「日本の大企業の取締役は60歳前後が中心です。アメリカでも平均は60歳ですが、その内訳は40~80歳と幅広く分散しており“エイジ”の多様性を実現しています。日本企業でもエイジのダイバーシティが実現すると、性別関係なく優秀な人材を抜擢しやすくなり、多様な人材による価値創造に取り組むことができるでしょう」(円谷氏)

5. 中間管理職の罠──ミドルマネージャーの役割を再定義すべき

人的資本経営を標榜し、従業員のエンゲージメント向上を目指してさまざまな施策が行われる中、負荷が集中している層がミドルマネージャー(中間管理職)だ。プレーヤーとして成果を上げることに加え、コンプライアンスを守り、1on1などを行ってメンバー個々のキャリア支援までも考えなければならないなど、求められる役割が増大しているのだ。徳谷氏は次のように懸念する

「人的資本経営のスタートで中間管理職の役割が増えたうえに、そのどれもが高いレベルでの遂行が求められています。職務をこなそうとがんばるものの、いずれ疲弊してしまいます。そのうちマネージャー職の成り手がいないという状況になってしまいます」(徳谷氏)

この解決策は「既存の枠組みの見直し」しかない。

「新しくできた役割のすべてを管理職に任せるのではなく、役割・役職そのものを見直して細分化することです」(徳谷氏)

6. キャリアの罠──自律的なキャリア形成なくして組織の成長は見込めない

人材戦略の実現において、「人材版伊藤レポート」では「ジョブ型」の方向性について言及している。「ジョブ型」とは、あるポジションに対して必要な能力を持った人材を充てるという海外で主流の雇用形態。日本で主流の「メンバーシップ型」(一斉に正社員として採用する方法)とは対極にある。日本では人的資本の観点から、メンバーシップ型からジョブ型へのシフトが叫ばれているが、思うように進んでいないのが現状だ。

山尾氏はその理由を、日本と海外の採用構造の違いにあるという。

「そもそも海外のジョブ型とは、一定以上のスキルを持ち、役職を得る層が対象となるものです。そうしたプロフェッショナル採用の人材は、専門の仕事のみを行い、間接業務や庶務的な仕事は別の人が行います。この区別が明確なのが特徴です」(山尾氏)

ここで重要なのは、「ジョブ型orメンバーシップ型の優劣ではない」という点だ。本来的なジョブ型を進めるとなると、一部のプロフェッショナル以外のメンバーは出世させなくてもいいのか、といった議論も出てくるだろう。自社の人材戦略に立ち返って、経営視点で考える必要がありそうだ。

また、人材と経営をひもづける人的資本経営の視点では、「投資」の視点も欠かせない。

「人材に資本投資したからにはそれを回収しなければいけないのは当然のことです。投資に見合うリターンが得られているかを計測するシステムの活用が必要です」(山尾氏)

企業と人材の関係性について、著書に『キャリアづくりの教科書』のある徳谷氏は「キャリア3.0時代」の考えを提唱する。

「年功序列や終身雇用といった時代をキャリア1.0だとすると、転職が一般的になってきた状態がキャリア2.0。そして今、転職することを前提としたキャリア3.0の時代に差し掛かろうとしています。個人は自律的にキャリアを選択していく時代であり、会社も必要なタイミングで必要な人を迎えることが普通になります。企業はもう、社員をずっと守っていることができないのです。それにより、“企業に頼ることで成長が止まる人材”が増えることを懸念しています」(徳谷氏)

就労やキャリアに対するオーナーシップが個人に託される時代。人的資本経営というと企業側の視点で議論が行われがちだが、その主役である個人の意識変化も、待ったなしと言える。

7. 思考停止の罠──人的資本経営を「トレンド」で終わらせないために

「人的資本経営」というトレンドワードをはじめ、この議論には「女性活躍」「働き方改革」など、いくつもの言葉が飛び交っている。しかし、キャッチーで耳なじみのいいこれらの言葉の一つひとつを、具体的にイメージできているだろうか。最後の「思考停止の罠」を訴えるのは、円谷氏だ。

「たとえば人材戦略の中で『人材活躍』という言葉がよく使われていますが、その定義はかなり曖昧です。昇格・昇給なのか、ワーク・ライフ・バランスなのか、本来は企業や従業員一人ひとりによって理想は異なるはずなのに、深い検討がなされず通り一遍のエンゲージメント調査などに終始してしまっているケースは多く見られます」(円谷氏)

わかりやすいキーワードだけを受け取って思考停止してしまうのではなく、その本質と向き合う必要がある。

継続的な取り組みの重要性を説くのは山尾氏だ。

「何か一つの施策をやって終わりではありません。企業活動として行う投資は長期的に観測できるようシステムを構築し、人的資本に対してどのような効果が出ているのか、財務とエンゲージメントの両面で見ていく必要があるでしょう」(山尾氏)

人的資本経営に取り組むうえで必要なこととして、徳谷氏は「自社が何のために存在していて、何をゴールとし、それをどのようなステップで達成していくのか。MVV(ミッション・ビジョン・バリュー)策定・浸透こそが鍵」と考える。

「日常の行動規範や価値基準などのバリューが、事業の持続的な成長のドライバーにつながる」(徳谷氏)

世の中のトレンドに惑わされるのではなく、自分たちの存在意義と徹底的に向き合う──自分ごと化する“軸”がなければ、人的資本経営は、はやっては廃れた数多のトレンドと同じ道を歩みかねない。

記事前編はこちら

(2023年9月29日発売の『Ambitions Vol.03』より転載)

text by Michiko Saito / edit by Keita Okubo

#人的資本経営#組織変革

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