嶋浩一郎氏が語る、本を通じて身につけたいエンパシー。 時空を超えて他人に憑依し、人間を突き詰める

林亜季

「時空を超えて著者や登場人物に『憑依』できる。多様な視点を身につけ、人の心のひだひだを理解することができる」。クリエイティブディレクター・編集者である嶋浩一郎氏は、本を通じて得られるものをこう表現する。2006年、既存の手法にとらわれないコミュニケーションを手がける博報堂ケトルを設立。「本屋大賞」の立ち上げに携わり、東京・下北沢で本屋B&Bを開業するなど、出版業界に広く携わる。朝日新聞社出向時には若者向け新聞『SEVEN』を創刊、雑誌『広告』編集長やカルチャー誌『ケトル』の編集長も歴任し、常に複数冊の本を併読する読書家としても知られる。嶋氏に読書指南を仰いだ。

嶋 浩一郎

博報堂 執行役員 博報堂ケトル 取締役 クリエイティブディレクター 編集者

1993年博報堂入社。コーポレート・コミュニケーション局で企業のPR活動に携わる。2001年朝日新聞社に出向。若者向け新聞「SEVEN」編集ディレクター。2002年から2004年に博報堂刊『広告』編集長を務める。2004年「本屋大賞」立ち上げに参画。現在NPO本屋大賞実行委員会理事。2006年「博報堂ケトル」を設立。カルチャー誌『ケトル』の編集長、「赤坂経済新聞」編集長などメディアコンテンツ制作にも積極的に関わる。2012年、本屋B&Bを開業。編著書に『嶋浩一郎のアイデアのつくり方』(ディスカ ヴァー21)、『ブランド「メディア」のつくり方 人が動く ものが売れる編集術』(誠文堂新光社)などがある。

世の中を見渡せるバルコニーに登ろう

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)などの著書がある京都市立芸術大学の谷川嘉浩先生が、本屋B&Bで哲学に関する講座を開いてくれています。名だたる経営者やクリエイター、編集者らがテキストを読み込んで参加し、毎度熱く議論する、人気講座になっています。

谷川先生は、「とにかく哲学を始めるには哲学書を読みましょう」と言います。「そもそもなぜ哲学を学んだほうがいいのか、哲学って役に立つのか、飲み屋で哲学っぽいことを語り合うのではダメなのか」と尋ねたら、「飲み屋で酒を飲みながらああでもない、こうでもないと語り合うのも哲学ですが、コスパが悪いんです」と。

哲学書には2500年もの間、批評にさらされて生き残ってきた仮説の積み重ねや、世の中の見方がたくさん詰まっていて、コスパよく多様な視点を身につけることができる。哲学書を読むことで、歴史的な天才哲学者たちの思考に触れることができるということなのだそうです。なるほど、と思いました。哲学書に触れることで、天才たちの思考をなぞり、世の中についての見方を複数手に入れることができる。

視点を複数持っていると、ビジネスがより効率的になったり、人間関係の失敗が少なくなったり。一見、現代を生きる我々においてはあまり関係がないように思いますが、いまというこのカオスな世の中で、哲学は仕事や恋愛、社会生活においても、実はすごく必要とされているものだと言えるかもしれません。

谷川先生は、「世の中を見渡せるバルコニーに登りましょう」と説きます。世の中を俯瞰して見ることができるバルコニーに登ることこそが、哲学者の思考なのだそうです。確かにいま、戦争や災害、仕事が佳境にあるなど、カオスの渦中にある人は、俯瞰して冷静に判断することは難しいと思います。ですが、哲学書を1冊読むことで、バルコニーから俯瞰するような視点を手に入れることができる。この考え方は哲学書だけでなく、あらゆるジャンルの本に通ずると思います。

他人に「憑依」し、人間を理解しよう

読書によって、他人に「憑依」することができます。手に取る本によって得られる視点が変化に富んでいて、現実世界ではあり得ない立場の視点を手に入れることができるのです。視点をたくさん持つと、純粋に楽しいですよね。

B&Bでは文学、小説、ノンフィクションから自然科学や植物、生物の本まで、いろんなジャンルの本を扱っています。多様な視点を手軽に与えてくれる装置です。哲学は世の中をどう見立てるか。その点は文学にも通ずるところがあり、フィクションは人間関係のあらゆるケーススタディーを教えてくれます。

ビジネスにおいて、企画書の中だけで仕事をしていると、現実にはワークしないような新商品やビジネスモデルが生まれてしまいます。「人間」というもの、「人の心のひだひだ」を追求しないから、こんなことが起きてしまうんだと思います。

ビル・ゲイツやオバマ元大統領が毎年、読んだ本をもとにして自身の考えを発表していますが、ビジネスリーダーや政治家であっても、紹介する本の中にフィクションや小説が必ず入っているというのがポイントです。人を知る、人間というものを突き詰めていかないと、ビジネスにおいても本質を外してしまうのだと思います。

多様性の時代、異なる人の立場に立てるか

本は時に、ハッとするような気づきや発見をもたらしてくれます。例えば、芥川賞を受賞された市川沙央さんの『ハンチバック』(『文学界』2023年5月号)では、人工呼吸器や電動車椅子の生活を送る市川さんの目線から、自身と同じ難病を患う40代女性を主人公に、分厚い本を読むことが身体的に大きな負担であり、紙の本を憎んでいることを表現していました。

物理的に本を読むことが難しい障がい者の方もいるということ、出版界が健常者を前提に成り立っているということ、そこにものすごい壁があることがわかりました。僕自身は本屋をやっていて、紙の本をめくる感じがいいよね、本の匂いがいいよね、とのんきに語ってきましたが、置かれた状況によって紙の本って憎しみの対象にすらなるのだと。狭い世界しか見ていなかったな、と。まさに新たな「バルコニー」に立った経験でした。

全ての立場の人の視点に寄り添うことは不可能ですが、いろんな人の思いに気づこうとするのは人としても、ビジネスパーソンとしてもすごく大事なことです。相手の感情や感覚に対し「その気持ち、わかる」とか「素敵ですね」「美味しそう」と同意や 賛同を表すのが「シンパシー」(sympathy)。それに対し「エンパシー」(empathy)は、バックグラウンドが違う相手の立場に立ち、相手が何をどのように考えているのかを想像する能力やアクションを指します。

異なる立場や意見の人たちとどう合意形成していくか。多様な価値観が併存するダイバーシティの世の中で、みんなが気持ちよく生きていくためにエンパシーが求められています。

劇作家・演出家の鴻上尚史さんもエンパシーの重要性について語っています。かつて子どもたちは公園などで自然に集まり「ごっこ遊び」をしていたことで、エンパシーが鍛えられていましたが、それがなくなってしまったことで、他人に憑依する経験が少なくなってしまった。そんな中でも他人に憑依できる演劇はエンパシーの力を育てられるシステムである、と。その通りだと思います。

世の中が分裂しないで、これからも社会として成り立っていくために、私たちはエンパシーを鍛えないといけない。まさに読書はエンパシーを獲得するための手段です。本を通じて、時空を超えて、自分とは価値観が違う人たちの人生を生きることができるのです。

異なる本を併読することで生まれる「ジャンプ」

アイデアは既存の情報の組み合わせで生まれます。自分とはバックグラウンドが異なる情報を扱うのは苦手という方もいると思いますが、読書によって、全く普段関わらない世界の情報やロジックを自分の中に取り込むことができます。

僕は小説やノンフィクション、経営やビジネス書など、ジャンルの異なる本を併読するようにしています。複数の本を同時に読んでいくと、全く違う概念をミックスする訓練になるんです。

飛距離のある強いアイデアは、異なっているもの同士を掛け合わせた時に生まれるのではないかと思います。異なるもの同士をミックスすることで「クリエイティブ・ジャンプ」を起こせる可能性が高まります。クリエイティブ・ジャンプとは、マーケティングなどであらかじめ予想できる成果を、飛躍したクリエイティブ表現によって逸脱し、大成功に導くことを言います。

進化が著しい生成AIですが、それを理解している人が異なるものや概念同士を掛け合わせるようにAIを使うことで、これまでにないアイデアが生まれたり、人間の力だけではできないジャンプを起こせたりするのかもしれませんね。

本屋B&B 「これからの街の本屋」を目指して、嶋氏と、ブック・コーディネーターでクリエイティ ブディレクターの内沼晋太郎氏との共同事業として2012年に東京・下北沢に開業。 話題の本の著者や編集者を招いたトークイベントやセミナー、ビールなどのドリン クが楽しめる新刊書店として人気を集める。

「本屋大賞」誕生秘話

文化人類学で「ブリコラージュ」(bricolage)という概念があります。「寄せ集めてつくる」とか「あり合わせのものでやりくりする」といった意味です。目的がなくても、何気なく物を集めながら進んでいくと、いつか組み合わせて何かの道具になって、思いがけないことに使えることがあったり、ひらめきのもとになったりします。

無駄な道具ばかり集めても記憶や所有の容量には限界があるので、自分の関心に隣接するような情報を集めていく必要はありますが、「何のために情報を得るか」「何を学ぶか」は決めすぎないほうがいいと僕は思います。何のために役に立つかはわからないけど、読んでおこう、といったスタンスで、ブリコラージュが後に起きたらラッキー。そんな気分で本や映画などのコンテンツに触れるのはどうでしょう。

書店員の投票だけで選ばれる「本屋大賞」を立ち上げたきっかけは、出版業界の課題解決をしたいというスタートではありませんでした。

博報堂から出している『広告』という雑誌を作っていたとき、雑誌を売りたくて書店をまわって書店員さんたちと話をしました。そのとき、彼ら彼女らがそれまでの文学賞に疑問を持っていることがわかったんです。

作家が作品を選ぶプロの目線と違って、書店員さんは読者に一番近い感覚で本を選んでいます。書店員さんの薦める本は、より読者の感覚を捉えていて面白そうだ、と思いました。その話をきっかけに、本の雑誌社のオウンドメディア「WEB本の雑誌」で書店員座談会が開催され、ブリコラージュ的に生まれたのが「本屋大賞」です。結果として、本に関わる人や書店員さんをエンパワーするアワードになりました。

最後に、僕自身古典をよく読むので、こちらの3冊をご紹介します。古典はいまの感覚とは違う部分もありますが、当時の人々は、いまを生きる私たち以上にヒリヒリするような生き方をしていたことが読み取れます。歴史を超えて当時の人に「憑依」できるのは面白く、歌舞伎や文楽にも通じる本の醍醐味だなと感じます。本は社会や人間関係に関するあらゆるケーススタディーを教えてくれる、“読むコンサルタント”と言えるかもしれませんね。


おすすめの3冊

源氏物語 1(河出書房新社) 角田光代(訳)

谷崎潤一郎さん、林真理子さんらいろんな作家が現代語訳を出しています。主人公の光源氏が宮廷社会をいかに生き抜いていくか、ライバルとどう渡り合うかなど、現代社会にも通じるポイントが多々あります。恋愛関係についても三角関係や裏切りなど、あらゆる人間ドラマと登場人物の選択のパターンがプリミティブ(原始的)な形で表現されています。

口訳 古事記(講談社)町田 康

約1300年前、日本最古の書物として編纂され、語り継がれてきた『古事記』の、町田康さんによる口語訳。アナーキーな神々と英雄たちが繰り広げる〈世界の始まり〉の物語。信仰や仕事を通じて、愛、戦略、裏切り、競争、策略など人間関係の縮図を、ヤンキー言葉も使いながら現代的に書いているのが最高です。

好色一代男(河出書房新社) 島田雅彦(訳)

伝説の色男、世之介の一生を描いた、井原西鶴『好色一代男』の、島田雅彦さんによる現代語訳。光源氏、在原業平の流れを汲むモテ男の生涯を描いています。人間関係のあらゆる駆け引きやあり方のパターンが繰り広げられていて、ケーススタディーとして読める1冊です。

text & edit by Aki Hayashi / photographs by Takuya Sogawa

Ambitions Vol.4

ビジネス「以外」の話をしよう。

生成AIの著しい進化を目の当たりにした2023年を経て、2024年。ビジネスの新境地を切り拓くヒントと原動力は、実はビジネス「以外」にあるのではないでしょうか──。すべてのビジネスパーソンに捧げる、「越境」のススメ。

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Ambitions Vol.5

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ニッポンの新規事業

ビジネスマガジンAmbitions vol.5は、一冊まるごと「新規事業」特集です。 イノベーターというと、起業家ばかり取り上げられてきました。 しかしこの10年ほどの間に、日本企業の中でもじわじわと、イノベーターが活躍する土壌ができてきていたのです。 巻頭では山口周氏をはじめ、ビジネスリーダー15組が登場。それぞれの経験や立場から、新規事業創出の要諦を語ります。 今回の主役は、企業内で新規事業を担う社内起業家(イントラプレナー)50人。企業内の知られざる新規事業や、その哲学を大特集します。 さらに「なぜ社内起業家は嫌われるのか?」など、新規事業をめぐる3つのトークを展開。 第二特集では、新規事業にまつわる5つの「問い」を紐解きます。 「企業内の新規事業からは、小粒なビジネスしか生まれないのか?」「日本企業からイノベーターが育たない。 人材・組織の課題は何か?」など、新規事業に関わる疑問を徹底解説します。 イノベーター必携の一冊。そろそろ新しいこと、してみませんか?