心理学と神経科学を融合し、脳と感情の研究をはじめ脳科学の最先端を一般にわかりやすく伝えてきたエレーヌ・フォックス氏。脳神経科学の研究成果を教育や企業の人材育成に活かしてきた青砥瑞人氏が聞き手となり、フォックス氏が提唱する、すばやく柔軟に対応し自ら変化を起こすスキル「スイッチクラフト」の実践法に迫った。予測のつかない世界を生きるために必要な「切り替える力」を通して、脳科学の視点からレジリエンスや自己肯定感の高め方、教育の未来について語る。
エレーヌ・フォックス
認知心理学者・神経科学者
ダブリン大学、ヴィクトリア大学ウェリントン校などを経て、エセックス大学で欧州最大の心理学・脳科学センターを主宰。その後、オックスフォード大学の感情神経科学センターを設立・指揮したほか、イギリス政府のメンバーとしてメンタルヘルス研究における国家戦略も担当した。現在はオーストラリアのアデレード大学で心理学部長を務め、認知心理学と神経科学、遺伝子学を組み合わせた先進的な研究をおこなっている。またコンサルタント会社〈オックスフォード・エリート・パフォーマンス〉を経営し、トップアスリートやビジネスパーソンなどのメンタル・トレーニングの指導にもあたっている。著書に『脳科学は人格を変えられるか?』(文藝春秋)がある。 ©Mark Bassett
青砥瑞人
応用神経科学者、DAncing Einstein代表
日本の高校を中退後、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に入学し、飛び級で神経科学学部を卒業。神経科学を心理学や教育学に関連付け、その理論を応用することで教育現場や企業において成長やウェルビーイングを促すことを目的に2014年にDAncing Einsteinを創設。神経科学の知見をもとに、未就学児童から大手企業の役員まで、空間デザイン・健康・スポーツ・文化など幅広い活動を展開している。おもな著書に『HAPPY STRESS──ストレスがあなたの脳を進化させる』(SBクリエイティブ)、『BRAIN DRIVEN──パフォーマンスが高まる脳の状態とは』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。
自己肯定感が高い人はレジリエンスも高い?
青砥(敬称略) まず、自己肯定感について考えていきたいと思います。さっそくですが、以前内閣府が行った13~29歳の若者を対象とした自己肯定感に関する意識調査を見てください。
青砥 日本の若者が「自分に満足している」と答えた割合は、調査したほかの国(韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン)より低いものでした。
実際のところ彼らは将来に希望を持っていないわけではないと思いますが、若者の自己肯定感が低いことは日本の将来にとって重要な課題だと考えます。
フォックス(敬称略) 私が設立したオックスフォード大学感情神経科学センターで、約500人の子供たちを対象に認知バイアス(経験や思い込みによって合理性に欠けた判断をする心理傾向)について大規模な研究を行ったことがあります。
研究では、若者たちに不快な言葉と心地よい言葉を見せてから、覚えている言葉をできるかぎり挙げてもらいました。すると、不安感や抑うつ感が強い若者は、心地よい言葉より不快な言葉を多く記憶している傾向がありました。一方で、前向きな考え方をする若者にはその傾向がなかったのです。この結果は、「成功しやすい人はネガティブな出来事をあまり覚えていない」という別の研究結果とも一致します。
そのほかアンケート調査も行い、レジリエンス(困難を乗り越え回復する力)に影響を与える因子を調べたところ、自己肯定感が重要だとわかりました。自己肯定感はレジリエンスを高め、目標達成にもプラスの影響を与えるのです。
自己肯定感を高める心理的な要素
青砥 フォックス先生が提案する「スイッチクラフト(切り替える力)」を育むことで、若者の自己肯定感や将来への希望を高められるのでしょうか。
フォックス 努力せずには難しいところですが、心理学でいう「自己効力感」を高めることで、自己肯定感も高まるのではないでしょうか。自己効力感とは、自分の人生において何かをコントロールできているという感覚を持つことです。
これはレジリエンスを高める上で大切な要素です。新型コロナウイルスの世界的な流行や、戦争など、不確実性の高い環境ではとくに重要性が高まります。このような環境では、気持ちを切り替えて適応することがより求められるため、自己効力感が必要だといえます。
スイッチクラフトは、受け身にならず自ら変化を起こすスキルです。困難な状況に直面しても能動的に行動できるようになれば自己効力感が高まり、自己肯定感につながるでしょう。
青砥 自己肯定感を育むために、ほかに大切なことは何でしょうか。
フォックス 自己効力感とも関連しますが、スイッチクラフトの要となる、すばやく柔軟な対応力(メンタル・アジリティ)が大切です。研究によってわかったのは、うつや不安感に対して免疫力がある、よりレジリエンスの高い子供たちは、機敏さや柔軟性も高かったということです。彼らは考え方を変えたり、必要なときに戦略を切り替えたりできます。それが「スイッチクラフト(切り替える力)」です。
物事を正しいやり方で進めていて、一生懸命働いて、気骨のある人であっても、なんらかの理由でうまくいかないことはあります。そういうときは、切り替える必要があります。
一方で、試験勉強やスポーツ、あるいはスキルを身につけようと努力しているときなど、コツコツと続け、やり抜くことが求められる場合も多くあります。どういうときに切り替えて、どういうときにこだわるかを学ぶ能力を身につけることが大切なのです。
「居心地の良い場所」から抜け出そう
青砥 切り替えるタイミングはどうやってわかるのでしょうか。
フォックス スイッチクラフトの能力を高めることで、切り替えるタイミングもわかってきます。スイッチクラフトは以下の4つのスキルからなります。
- すばやく柔軟に対応する
- 自分を知る
- 感情への気づき
- 状況をつかむ
このうち中心的なスキルは1で、2〜4は1を支えるものです。自分自身の価値観や信念、感情を理解することで、切り替えるべきタイミングに気づけるようになります。こうした深いレベルの自己認識は、自己肯定感を高めるためにも大切です。
しかし、変化に対して柔軟に対応することが大切だと言われても、そもそも居心地よく感じられる範囲(コンフォート・ゾーン)から出て、変化する環境に身を置くのは簡単ではありません。誰もが、うまくいっていないとわかっていても、慣れ親しんだもの、快適な状況にとどまりつづけたいと望むものです。
青砥 機敏で柔軟性のある考え方ができる教育現場であれば、子供たちはスイッチクラフトをより発揮し、自己肯定感も育まれるのではないでしょうか。
フォックス そう思います。組織のメンバー(学校なら生徒、会社なら従業員)が、決まったやり方に従わなければならないと感じているなら、好奇心や自己肯定感を損ないかねません。
もしゴルフでクラブを1本しか使えないとしたら、打てるショットも限られるでしょう。人生も同様で、適切な状況で適切な戦略を使うテクニックを身につける必要があります。メンタルが硬直し、融通がきかない人の問題点はそこにあります。自分にとってうまくいっていない証拠がたくさんあってもそれを認めず、同じやり方にこだわるので、結果的に行き詰まってしまうのです。
状況に合った戦略をとるには、新しいことを試せる、心理的に安全な環境が必要となります。教師や組織のリーダーはそこに属する人たちが挑戦できる機会を提供するべきでしょう。自己肯定感を高めるには、その環境が大切です。
text by Junko Kawakami / edit by Mao Takamura