
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
東京のビル群に朝日が反射し、オフィスに光が差し込む。新規事業コンテスト一次審査通過の余韻も冷めやらぬ会議室。しかし、有田と増井の表情は、高揚感よりも不安の色が濃かった。
「電子部品と健康。本当に形になるのかしら。」
有田は呟く。増井も、手元の資料に目を落とす。
「一次審査は通過したものの、僕らのプランはまだまだ絵に描いた餅だ。本条さんの助けなしに、二次審査を突破できるとは思えない」
二人の視線の先には、メンターの本条真琴がいた。明るくよく手入れされたロングヘアーをなびかせる彼女は、知的な雰囲気を漂わせながらも、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っている。
沈黙を破ったのは、本条だった。
「新しいビジネスは、地図のない荒野を切り開くようなものです。そこには、果てしない不安と、容赦なく襲い掛かる困難が待ち受けているのが当然。不安かもしれないから、私から少しだけ話をしてもいいかしら。」
彼女の言葉には、生々しい力が感じられた。
「私は以前、あるシステム開発会社で、画期的なAI医療診断システムの開発に携わっていました。世界を変える技術だと、心から信じていました」
彼女の言葉は、過去の熱を帯びていた。だが、その瞳の奥には、拭いきれない影が見え隠れする。
「でも、現実は甘くなかった。開発は難航し、資金調達は行き詰まり、チームは分裂状態に。そして、最も信頼していた仲間、共同創業者の裏切りによって、すべての技術と権利は外資のファンド企業に奪われてしまったのです」
静まり返る会議室。有田と増井は、ただじっと本条の言葉を聞いていた。
「彼は、巨額の報酬と引き換えに、私たちの技術を売却した。社内政治、権力闘争。大企業という巨大な組織の中で、私たちの理想はもみくちゃにされてしまったんです」
本条の声は、静かだが、その言葉のひとつひとつに、深い怒りと悲しみが込められていた。
「あの時、私は人間不信に陥りました。そして、二度とあんな苦い思いはしたくないと心に誓ったんです。」
本条は、ゆっくりと立ち上がり、窓の外に広がる東京の街並みを眺めた。
「だからこそ、私は、あなたたちを成功させたい。私と同じような思いをして欲しくない。あなたたちのビジネスプランを見せてもらいました。正直、現時点ではまったく組み上がっていないけれど、大企業の論理に潰されることなく、本当に価値のあるものを生み出そうという意志は感じられました。それを私は応援したい。」

彼女の言葉は、有田と増井の胸に深く突き刺さった。それは、単なるメンターとしての激励ではなく、過去の傷と未来への希望を背負った、本条真琴という人間の、魂の叫びだった。
「さあ、始めましょう。電子部品と健康。そのふたつを繋いで、世界を変えるような未来を一緒に創り上げましょう。」
本条の言葉が、有田と増井の心に、新たな炎を灯そうとしていた。
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