第3話:気が乗らない【100話で上場するビジネス小説】

YO & ASO

これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。

富士山電機工業が初めて新規事業コンテストの開催を発表した日、社内には慎重な空気が流れていた。コンテストの推進部門であるイノベーション推進部が派手な告知を打ち出したものの、実際のところ、社員たちの反応は皆半信半疑。というのも、推進部門だけが声高にイノベーションの必然性を発信する一方で、複数の経営陣から「期待はしていない」などの冷ややかな声が漏れ聞こえてきたからだ。果たしてこのコンテストには乗っかった方がいいのか、社内の空気は様子見の微妙なものになっていた。

「新規事業コンテスト、本当にやるんだってさ。でも、誰が応募すると思う?」

そんな皮肉な言葉が社内で囁かれていた。しかしその中で、一部の変わり者たちだけは、コンテストに興味を強めていた様子だった。エンジニアリング部門の荒川正志や、マーケティング部門の飯島真理など、新たな風を求めた一部の社員が、閉塞感で覆われた富士山電機工業ではじめての開催となる新規事業コンテストを、何かを変えるチャンスとして捉えようとしていた。

コーポレート戦略課長で同期の川島秀一や新人で同僚の鈴木彩音の否定的な言葉を聞き、新規事業コンテストについての疑念を抱いていた増井博之。その日も彼はデータ分析の仕事に埋もれていた。賑やかな社内の中で、増井のデスクは静かだった。大量のデータをスクリーンに映し出しながら、彼はコーヒーを手に、キーボードをタイプし続けていた。

「増井、新規事業コンテストには出さないのか?」

とデータ分析課の同僚がひやかし半分で声をかけても、

「そんな時間があれば、今手がけているデータ分析を進めるよ」

と一笑に付していた。

増井の日課は、母親の看病と、締め切りに追われるデータ分析だけ。自分が会社の中で新しい事業を立ち上げるなんて、考えただけでも遠いことのように感じていた。

しかし、その日の夜のことだった。

退社間際にチェックしたメールボックスに、一通のメールが届いた。

差出人はマーケティング課の有田恭子。富士山電機工業に入社してきた転職組で、増井とは昨年、研修で一緒になった間柄だった。仕事の内容が異なるため、仕事上はあまり接点がなかったが、研修中に同じ大学の後輩にあたることがわかって以来、何かあると会話をする仲になっていた同僚だった。

「増井さん、お疲れ様です。突然のメール、失礼します。新規事業コンテストについてお話したいことがあります。よろしければ明日、ランチでもいかがですか。」

メールの内容はそこまでだった。

一瞬、無視することも考えた増井だったが、何となく返信を打ち込んだ。

「了解。明日、ランチで話しましょう。」

翌日のランチタイム。社内食堂で向かいの席に座ると、有田は言った。

「お久しぶりです、増井さん。」

そして、挨拶も早々に本題に入った。

「今度開催される新規事業コンテスト。私と一緒にチームを組んで出場しませんか?」

「え、有田、あのコンテストに参加する気なのか?」

突然の誘いに驚きながらも、ひとまず増井は話を聞いた。

「増井さん、実は私、新規事業を立ち上げたくて前の会社から富士山電気工業に転職してきたんです。転職してから、人事にも相談をして機会を伺ってきたんですけど、なかなか今の部署だと新しい提案を聞いてもらえる機会がなくて。今度の新規事業コンテストは、チャンスだと思ったんです。」

有田が熱心に話した新規事業のアイデアは、健康とヘルスケアをテーマにしたビジネスプランだった。パーソナライズされたヘルスケアサービスを提供するプラットフォームを作り出す。個々のユーザーの生活習慣や健康状態をデータとして収集し、それを元に専門家が個別の健康プランを作成、提供するというものだった。

増井は言葉少なにそれを聞いていた。初めのうちは、あまりにも壮大すぎて現実味がなかったし、電子機器部品メーカーである富士山電機工業とはあまりにもかけ離れたビジネスモデルだから、全く見込みが立たないように思えた。ましてや、こんな自分が新規事業なんかに巻き込まれたら大変だ、と思うばかり。話を聞く顔も、どこかひきつった作り笑いで、まったく興味を持てないでいた。

しかし、有田恭子が語ったアイデアの中に、増井の母親の状況と共通するものがあった。

「増井さん、私は、富士山電機工業の力で、世界中の人たちが健康に暮らせるための新しい事業を立ち上げたいんです。」

増井の母親は長年、慢性的な健康問題を抱えており、それに対する適切なケアや管理に悩む日々を送っていた。彼自身も、母の病状を改善できる何かを見つけたいと思いつつ、その手段が見つからない現実に苦悩していた。有田が語った個別対応の健康プランのアイデアは、増井が日々直面する問題に対するかすかな可能性を感じさせた。途方もないプランだとは思いながらも、もしも実現できれば、データに基づきパーソナライズされた健康プランは、患者一人ひとりの病状やライフスタイルに合わせた適切なケアと予防を可能にするかもしれない。

「増井さん、このプラットフォームが現実になれば、世界中にいる日々の健康管理に悩む人々を、もっと助けられるはずです。一人ひとりの生活習慣や健康状態に合わせて、適切なケアを提供する。そんなビジネスを一緒に作り上げませんか? このビジネスにはデータ分析ができる増井さんの力が必要なんです。」

有田がそう言ったとき。ほんの少し、ほんの少しだったけれど、増井の心は揺さぶられてしまった。

自分のことを必要だと言ってくれたことが素直に嬉しかったし、有田が語ったアイデアが、自身と母親が直面している問題に直結している内容だとも感じたこと。もしかしたらこのアイディアに一緒に取り組むことが、自分の人生の何かを変えられるかもしれないという淡い感情が増井の中に芽生えた。

ランチの終わりに、彼女が

「増井さん、データ分析の専門家として、私と一緒にチームを組んでくれませんか?」

と提案すると、増井は自身の感情に驚きつつも、何故かその場で断ることができず、つい言葉を発してしまった。

「わかった。考えてみるよ。」

【第4話はこちら】

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